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妙齢を過ぎたオタクOLの休日日記です

人生の半分はPMDDとの戦いだった

PMDD(月経前不快気分障害)の症状と経過の覚え書きです。
 
好きなゲームの『街〜運命の交差点〜』のTipsに「人間にはハムレット型とドン・キホーテ型がある」というのがあって、それなら自分は幼少期から根っからのハムレット型だろうなーと思っていた。
 
 
高校時代、女子校に通っていた私はそれなりに楽しい学校生活を送ることができていた。田舎の公立中学から私立の中高一貫校に進学して、はじめは女の子たちが洗練されていること、とくに髪が違って、手入れの行き届いたロングに目立たない程度のブラウン、ゆるくかかったパーマ、どれも中学校では見慣れない美しさだったので驚いた。性格も穏やかな人が多く、過ごしやすい環境だった。そのころ生理は痛みが強く、保健室に湯たんぽを借りに行くことが多かった。
 
精神面ではたまにバイト中に急に涙が止まらなくなることがあった。そういうときはとても接客できる顔ではなかったので店長が厨房に下げてくれ、詳しいことを聞かずにトマトを切る仕事を与えてくれたのを覚えている。薄切りにしたトマトをバットに移しながら、なぜ悲しくもないのに泣くのだろう、と思っていたものの当時はそれを生理と強く紐付けることはなかった。
 
 
数年後、浪人して私はめざす分野の最高峰といえる大学に入った。
誇らしいと思ったし、最初は期待とやる気に胸がいっぱいだった。毎日情報を得てアウトプットしようとしていた。
 
20代になってからはだんだんと生理前の症状が重くなり、鬱症状が出るようになっていた。この約一週間のあいだは、頭の中に他のなにかが住みついているようだ。何が悲しいか自分でもわからないのに死にたいという気持ちが常に頭の奥に貼り付けられていて、悲しかった記憶や後悔ばかりを引っ張り出してくる。そして際限なく底なしに眠たい。症状が軽いときは充分な睡眠で持ち直せることもあれば、半年に一度くらい衝動的にドアノブにベルトを絡めてここで死んだら…と考えたり実際に頭を預けてみることもあった。
 
鬱症状の期間は月に生理前の1週間程度のことだったが、それが苦しい。そのころ私はすでに数度か苛烈な症状を経験しておりほのかに「いつか生理が原因で死ぬんだろう」と感じていたので、生理前はいつも恐ろしい数日間だった。そして期間が終わるとすっと引いていき、なんでそんな気持ちだったのかがわからない。毎月毎月積み重ねたものをリセットされているような無力感を感じるようになっていった。
生理前はとても外出できるような状態でないことが多かったので休みが増えていた。学校のイベントでたまたま会った予備校時代の先生に出席率が芳しくないことを知られ、「がんばります」と言ったら「いや、頑張る必要はないよ」と諭されたのが印象的に残っている。
 
だんだんと一週間のはずの鬱がずるずると長引くようになり、徐々に学校に行けず寮の自室で寝込む日が増えていった。そして慢性的な鬱になった。
 
学校にしばらく出席していないという話が伝わって、寮の近くまで父が会いに来た。父は本人も近い気質があるので優しかったけれど、私は情けなくて申し訳なくて仕方がなかった。
寮ではインターネットしかすることもできることもなかったのでインターネットをしていたら、同じような症状を持つ人たちが書き込んでいる掲示板を見つけ、この病気はPMSではなくPMDDと呼ぶことを知った。そのスレでは「卵巣も子宮も取り出してしまいたい」「毎月自殺しそうになる」「医者に行っても軽くあしらわれる」など自分が常々呟いていたようなことが書き込まれていて、同じ症状に苦悶する人の存在にわずかに救われる気持ちがした。
 
ほとんど引きこもりのようになったとき、私にはなんの想像力もエネルギーも残されていなかった。同じ科には素晴らしいものを生み出す人間が沢山いて、そして自分にはそれだけの器も能力もなかったのだと現実を認めざるを得なかった。
 
実家に戻り、教授との最後の面談もせずに逃げるように退学した。なけなしの自尊心や自己肯定感は底をついていた。
 
次の春に自分から提案して親友と金沢に旅行に行った。気の知れた子だったので道中本当に楽しかったけれど、最終日にPMDDがきて、消灯された真っ暗な帰りの夜行バスでとなりに親友がいるのに涙が止まらなくなり、気取られないように声を殺して2時間は泣いていた(親友からしたらホラーだと思う)。どうしてかそのとき、私はこの親友と会うのはこれが最後だと思い込んでいた。「これでとうとう上がり」「もう誰もいない」「とうとう死ぬしかないのだ」という文言が頭をぐるぐる廻る。強迫観念のように頭の中で誰かが「ついにすべてを失ってしまった」と言っていた。
 
そのあと、iphoneを水没させてそれまでの友人知人、好きだった人、ずっと仲のよかった親友ともすべての連絡を絶ってしまった。
 
 
それから数年間はピルや漢方やSSRIと試して通院したり、中断したり、生活を改善したり…気長に対応を模索しながらフリーターか時期によってはニートをしていたが、縁あって好きな仕事に就くことができた。
 
プレッシャーから解放されて私は少し回復したが、自分の持てる責任の限界があることを思い知っている。戦いと言うにはあまりに非力で、やられっぱなしで、どうしてこんなに理不尽な病気があるんだろう?と失ったものばかり浮かんでくる中、唯一得たものは人の機嫌の良し悪しに寛容になれたことかもしれない。あと担当アイドル。中退してプライドがベコベコのニートになった私は彼女の存在にずいぶん救済されたので、いずれ書きます。
 
20代後半になった現在はヤバいかもと思ったらすぐに有休で回復させながら、なんとかゆるめに働いて生活している。連絡を絶った人たちとは未だに連絡を取っていない。最近通いはじめた病院で出してもらった安定剤が相性良かったらしく、ここ数ヶ月は格段に楽に過ごせるようになっている。
 
 
その薬を初めて飲んだ夜。薬の作用でゆらゆらしながら寝転んでいると、普段そのくらいの時間に決まって頭を塗り潰していた過去の失敗や後悔や取り返しのつかないこと、苦しいイメージではなくて、忘れていたようなとりとめのない懐かしい記憶がふつふつと湧いてきて泣いてしまった。
 
いつか旅行先で見に行った美術館の受付のとなりに置いてある黒い器や、大好きだった年下の女の子とふたりで馬喰町を歩いたこと。親友と話したこと。忘れていたような瑣末なつながりのないシーンばかりだったけれど、失敗ばかりをしてきたどうしようもない人生でなくて、そのときどきにたしかに素晴らしい時間があったということを私はその夜久しぶりに思い出した。
 

日記はじめました

にわかに「もしかしたら生きていくかも知らん」という気持ちが沸き立ってきたのは一年前の8月の終わりから9月の初めだったと思うのだけど、それまでの自分のスタンスといえば、今後お金がなくなったりまた生きる気力がなくなったら死ぬか!くらいのもので、30代を生き過ごせる気があんまりなかったのだった。
自分の生きるモチベーションを信用していないし、スキルも特別持っていないので見通しがどうというよりは、見通しをする手立てすら知らない…ような状態だった。今がその状況から何か環境の一つも変わったかと言えば別になにも変わっていないし、特にきっかけがあったわけでもないけど、夏が終わって何となくグラデーションのように元気がある季節ってだけかもしれない。
そんなわけでまずはお金の心配をどうにかしなければなあと思っているところで日記にも付けはじめた。これは20代後半のオタクOLが休日に書くだけの日記です。